2016年07月30日
「勉強は捨てても、理科社会読書は捨てるな!」それが子供の将来を切り開くきっかけとなるから!
最近色々悩む事がある。
やはり、反復を伴う勉強と言うのはつまらないし辛いもの。怠け者にとっては間違いなくやりたくないこと。
息子は反復練習が好きじゃない。
これをやらせるのは親が色々努力しないと上手くいかない。
親のコンディションが悪いと見てあげられなかったりするわけで、自分から進んでやれる子など一握りなわけで、1人でやる事を最初から望むことはできない。
一緒にやっても文句は多い。
「つまらない」だとかまあ、当然。
自分も反復練習的な勉強はつまらなかったと強烈に記憶している。
どこの家でもよくあることだと思うが、
「勉強したくない」と言われたりして、「本当に勉強しなくていいのか?」悩むことについて、一つのある結論にたどり着いた。
それが、 「勉強は捨てても、理科社会読書は捨てるな!」である。
普通なら、「読み書き計算だけはやらなきゃだめだ」というだろう。
子供が嫌がる「読み書き計算」。反復ばかりで一部の人以外は面白いと思わないのが一般的な勉強。
でも、これってすごく基本で大事と言われている。ここだけは押さえろと。
本当にそうなのか?
冷静に考えると、「読み書き計算」って後回しでもよくない?と思えてきた。
確かに本当に最低限の「読み書き計算」はできないとまずい。
本を読めるレベルの「読み」
名前をかけるくらいの「書き」
足し算ができるくらいの「計算」
これ以上のことはやらなくてもいいのではないか?と思わず思ってしまったのだった。
だが、絶対外してはいけないのは「理科(日常の自然科学)」「社会(政治、経済など)」「読書(漫画でもいい)」かなと。テストの点とかを取れということではなく、「理科」「社会」に関しては知識として知っておくことだ。ただ覚えるだけならやらないほうが良い。
どうしてこの3つなのか?
物事に興味を持つこと、「どうして?」と思うことを「理科」「社会」の教科から学べる。
こういう「どうして?」と思う事が学びにつながる。そして、いつか理系の仕事に就きたいと思ったり、社会問題を解決するためには、理科や社会科の色んな知識が必要で、さらにそれを支える国数が必要となる。
中学、高校生くらいになった時、「この職業に就きたい!」とか「この社会問題を解決したい!」とかそういう動機が一番大事だと思うのだ。そして、そういう動機さえ持てれば、必死に国数も勉強しなきゃならないと腹をくくれるので、たとえ、国数がかなり遅れていたとしても、死に物狂いで努力すれば取り戻せるのだ。その死に物狂いで勉強するパワーをくれるのが「理科」「社会」「読書」からの「きっかけ」だと思う。
「将来こういう仕事をしたい!」
「こういうものを作って人の役に立ちたい!」
こういう純粋な気持ちをもたせてくれるのが 「理科」「社会」「読書」だと思う。
そして普通に楽しい。世の中を知れて楽しいし、ひっきりなしに世の中に対しての疑問が湧いたり答えがあったりする。息子は「生活科」が好きだと言っており、新聞記事の内容やニュースにすごい興味関心を持っている。
ただ、単に「国語」「算数」ができるようになっても「一体何の役に立つのか?」見えにくい。
さっきあげた最低限の「読み書き計算」ができればそれ以上の難しい問題を解くことに意味を見出すのはとても難しいこと。意味が見出せないもののために鍛錬していくのはとても過酷で、根気がないと続かない。勉強が嫌いになる。勉強はつまらないものだと勘違いさせる。
もちろん、「国語」「算数」の問題を解く楽しさだとかそういうのは別に伝えていく必要はあるとして、生きる上で直結しているのは「理科」「社会」の方だと思う。そして「読書」が世界を広げる。
だから、私はもし、息子が本当に「もう勉強やりたくない!」となって、私も日頃の疲労などで勉強をやらせる気力がなくなったら「勉強は捨てても、理科社会読書は捨てるな!」という方針で、新聞を毎日一緒に読む事や読書をたくさんさせることは継続しようと思う。でも、その時は計算や漢字は捨てるかもしれない。
以前、「サドベリー・スクール」についての講演会に行ったことがある。
本田健さんのお子さんがサドベリー・スクールに通っており、本田健さんと吉本バナナさん(吉本さんのお子さんも通っている)が対談したり、実際に通っているお子さんや親御さんがどうなのか?話してくれたり、「サドベリー・スクール」を紹介するといった感じの内容だった。
「サドベリー・スクール」では一切勉強を教えない。やらせない。自分たちで話し合い決める。
だから、読み書きを最初からやる普通の学校とは違う。
好きなことをやる。だから、「毎日ゲームばかりやってました」という子が多いそうなのだが、やはり人の作り物はやりこみすぎると飽きがくるようだ。そして、自分から「ドリルやる」と言って漢字ドリルとかをやり始める日が小学校中高学年くらいになると来たりする子が多いと。
学校で教えてもらわなくても、読み書きはできるようになると言っていたのは印象的だった。
そうやって、沢山時間があると自分と向き合う時間が増え、そこで「本当は何をしたいのか?」というもがきが始まるらしい。そこで本当に見つかった夢というのはすごく大きいようでそこから本気で勉強し始めるというのを聞いた。ある意味非常に理にかなっていると思うところがあった。
そういう話を聞いているからかもしれないが、やはり読み書きといった単純反復作業の伴う勉強は「やろう!」と自分が思った時からで遅くないのかなと思った。15歳の子と35歳の大人が同じように勉強し始めたら15歳の子の方が記憶力が良かったりするケースは多いと思うが、一般的に20歳までなら体は成長し続けるのでいつ初めても遅くないのかなと感じる。やると決めてからでも遅くない。
やるきっかけがあればやるのだろうけど、そのきっかけというのは普通に生活していても中々見つけられない。大人だって、「自分が何をしたいのか?」わからないまま生きている人がほとんどだ。
きっかけが非常に大事だと思う。サドベリー・スクールは圧倒的な「退屈な時間」と向き合うことで自分と向き合うことになるという。普通の学校に通っている場合はどうか?圧倒的な「自由な時間」はないといったところだ。 そういう生活の中で自分を見つめたり、世の中の矛盾を感じる為にはやはり、日々新聞に書かれていることを知って驚いたり、本を読んでショックを受けたりする事が大事だなと思うのだ。それがきっかけになるから。
だから私は 「勉強は捨てても、理科社会読書は捨てるな!」という方針で行こうと決意したのだった。
「つまらない」だとかまあ、当然。
自分も反復練習的な勉強はつまらなかったと強烈に記憶している。
どこの家でもよくあることだと思うが、
「勉強したくない」と言われたりして、「本当に勉強しなくていいのか?」悩むことについて、一つのある結論にたどり着いた。
それが、 「勉強は捨てても、理科社会読書は捨てるな!」である。
普通なら、「読み書き計算だけはやらなきゃだめだ」というだろう。
子供が嫌がる「読み書き計算」。反復ばかりで一部の人以外は面白いと思わないのが一般的な勉強。
でも、これってすごく基本で大事と言われている。ここだけは押さえろと。
本当にそうなのか?
冷静に考えると、「読み書き計算」って後回しでもよくない?と思えてきた。
確かに本当に最低限の「読み書き計算」はできないとまずい。
本を読めるレベルの「読み」
名前をかけるくらいの「書き」
足し算ができるくらいの「計算」
これ以上のことはやらなくてもいいのではないか?と思わず思ってしまったのだった。
だが、絶対外してはいけないのは「理科(日常の自然科学)」「社会(政治、経済など)」「読書(漫画でもいい)」かなと。テストの点とかを取れということではなく、「理科」「社会」に関しては知識として知っておくことだ。ただ覚えるだけならやらないほうが良い。
どうしてこの3つなのか?
物事に興味を持つこと、「どうして?」と思うことを「理科」「社会」の教科から学べる。
こういう「どうして?」と思う事が学びにつながる。そして、いつか理系の仕事に就きたいと思ったり、社会問題を解決するためには、理科や社会科の色んな知識が必要で、さらにそれを支える国数が必要となる。
中学、高校生くらいになった時、「この職業に就きたい!」とか「この社会問題を解決したい!」とかそういう動機が一番大事だと思うのだ。そして、そういう動機さえ持てれば、必死に国数も勉強しなきゃならないと腹をくくれるので、たとえ、国数がかなり遅れていたとしても、死に物狂いで努力すれば取り戻せるのだ。その死に物狂いで勉強するパワーをくれるのが「理科」「社会」「読書」からの「きっかけ」だと思う。
「将来こういう仕事をしたい!」
「こういうものを作って人の役に立ちたい!」
こういう純粋な気持ちをもたせてくれるのが 「理科」「社会」「読書」だと思う。
そして普通に楽しい。世の中を知れて楽しいし、ひっきりなしに世の中に対しての疑問が湧いたり答えがあったりする。息子は「生活科」が好きだと言っており、新聞記事の内容やニュースにすごい興味関心を持っている。
ただ、単に「国語」「算数」ができるようになっても「一体何の役に立つのか?」見えにくい。
さっきあげた最低限の「読み書き計算」ができればそれ以上の難しい問題を解くことに意味を見出すのはとても難しいこと。意味が見出せないもののために鍛錬していくのはとても過酷で、根気がないと続かない。勉強が嫌いになる。勉強はつまらないものだと勘違いさせる。
もちろん、「国語」「算数」の問題を解く楽しさだとかそういうのは別に伝えていく必要はあるとして、生きる上で直結しているのは「理科」「社会」の方だと思う。そして「読書」が世界を広げる。
だから、私はもし、息子が本当に「もう勉強やりたくない!」となって、私も日頃の疲労などで勉強をやらせる気力がなくなったら「勉強は捨てても、理科社会読書は捨てるな!」という方針で、新聞を毎日一緒に読む事や読書をたくさんさせることは継続しようと思う。でも、その時は計算や漢字は捨てるかもしれない。
以前、「サドベリー・スクール」についての講演会に行ったことがある。
本田健さんのお子さんがサドベリー・スクールに通っており、本田健さんと吉本バナナさん(吉本さんのお子さんも通っている)が対談したり、実際に通っているお子さんや親御さんがどうなのか?話してくれたり、「サドベリー・スクール」を紹介するといった感じの内容だった。
「サドベリー・スクール」では一切勉強を教えない。やらせない。自分たちで話し合い決める。
だから、読み書きを最初からやる普通の学校とは違う。
好きなことをやる。だから、「毎日ゲームばかりやってました」という子が多いそうなのだが、やはり人の作り物はやりこみすぎると飽きがくるようだ。そして、自分から「ドリルやる」と言って漢字ドリルとかをやり始める日が小学校中高学年くらいになると来たりする子が多いと。
学校で教えてもらわなくても、読み書きはできるようになると言っていたのは印象的だった。
そうやって、沢山時間があると自分と向き合う時間が増え、そこで「本当は何をしたいのか?」というもがきが始まるらしい。そこで本当に見つかった夢というのはすごく大きいようでそこから本気で勉強し始めるというのを聞いた。ある意味非常に理にかなっていると思うところがあった。
そういう話を聞いているからかもしれないが、やはり読み書きといった単純反復作業の伴う勉強は「やろう!」と自分が思った時からで遅くないのかなと思った。15歳の子と35歳の大人が同じように勉強し始めたら15歳の子の方が記憶力が良かったりするケースは多いと思うが、一般的に20歳までなら体は成長し続けるのでいつ初めても遅くないのかなと感じる。やると決めてからでも遅くない。
やるきっかけがあればやるのだろうけど、そのきっかけというのは普通に生活していても中々見つけられない。大人だって、「自分が何をしたいのか?」わからないまま生きている人がほとんどだ。
きっかけが非常に大事だと思う。サドベリー・スクールは圧倒的な「退屈な時間」と向き合うことで自分と向き合うことになるという。普通の学校に通っている場合はどうか?圧倒的な「自由な時間」はないといったところだ。 そういう生活の中で自分を見つめたり、世の中の矛盾を感じる為にはやはり、日々新聞に書かれていることを知って驚いたり、本を読んでショックを受けたりする事が大事だなと思うのだ。それがきっかけになるから。
だから私は 「勉強は捨てても、理科社会読書は捨てるな!」という方針で行こうと決意したのだった。